あとかの雑日記。

日々の出来事や思いついたことを、手頃な長さの文章で書いていきます。

綺麗な満月の夜に思い出した話。

こんばんは、あとかです♪

何日か前、仕事が遅くなり、21時過ぎに帰宅の途についていました。

ふと夜空を見上げると、そこにはとても大きな月が煌々と輝いていました。

その日は満月だった様です。

薄い雲に少し霞んだ月光は、どこか神々しくて、厳かな気分にすらなりました。

そんな月をぼんやりと眺めていると、ずっと昔にあった出来事を思い出しました。

 

今回は、綺麗な満月の夜に思い出した話をご紹介します。

事実をもとにしていますが、かなり前のことなので、記憶が曖昧だったり、飛び飛びだったりします。

また自分自身のことですので、身バレしない様に、敢えて脚色している部分もあります。

※本記事は2020年9月3日に投稿したものをリライトし、本ブログに移動したものです。

 

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入学式

今から30年以上前のことです。

私は、関東地方のK県の、ある公立中学校に入学しました。

入学式の事はほとんど覚えていませんが、取り立てて印象に残ることもない「普通の式」だったのだろうと思います。

記憶にない入学式が終わった後、担任教師に連れられ、自分達の教室にクラス全員が列をなして入りました。

そして、名前順で指定された席に座る様に促されました。

近隣の2つの小学校の卒業生が合わさる形なので、クラスの半数は知らない顔でした。

入学した初日は男女別の座席でなく、完全に名前順だったため、たまたま私の前後に座ったのは女子でした。

まだクラス全体が緊張している中、小学校から知っている友人同士が喋り始めザワザワしていました。

私は近くの席には知った顔がいなかったため、何となくぼんやり座っていました。

その時、前の席の女子が不意に振り返り、「あとか君?」と私の名前を呼びました。

「うん」と、私は驚きながら、何とか答えました。

正直言って、その相手の顔に全く見覚えはありませんでした。

それだけ聞くと、彼女は「そっか」と言って、そのまま、また前を向いてしまいました。

担任の先生の最初の挨拶やオリエンテーションが行われている間、私の頭の中には「??」があふれていました。

私が、遠い昔、中学生になった日について、覚えているのは、今となってはそのことだけです。

 

立候補

教室で、全員が一言ずつ自己紹介をした際、彼女はAさんという名前だとわかりました。

名前が判明しても、私は彼女のことを思い出すことはできませんでした。

それからしばらく、Aさんと会話をする機会はありませんでした。

早速席替えがあり、近くの席では無くなっていましたし、中学生男子は気軽に女子に話しかけることもできません。

それに、「いつ会ったっけ?」などと尋ねて良いかもわかりませんでした。

Aさんは、女子の中でも比較的身長は低い方でした。

丸顔のせいか、太っているわけではありませんが、コロコロした小動物のような印象でした。

今思い返すと、見た目は何となく、女優の高畑充希さんに、似ていた気がします。

 

入学してからしばらくして、クラスの委員を決めることになりました。

美化委員や保健委員、風紀委員などの委員会活動のためのクラス代表です。

各クラスで男子、女子1名ずつが1年間、担当した委員会活動の従事することになります。

私は、「図書委員」に立候補しました。

意外と人気がなく、すんなり私に決まりました。

図書委員は、昼休みや放課後に、定期的に図書室で貸し出し業務や本の返却・整理の仕事があり、どちらかと言えば「面倒」な部類の委員会でした。

けれども私は、小学生の頃から「図書委員」が大好きでした。

図書室自体の雰囲気も好きでしたが、貸し出しカウンターで仕事をする「中の人」になれるのも楽しかったのです。

担任の先生が、黒板に書いた私の名前の横に、もう1人の立候補者である女子の名前を書きました。

それは、Aさんの名前でした。

私同様、Aさんも図書委員に立候補していました。

その時のことも、何故かよく覚えています。

(それとなく、どこで知り合っているのか聞き出せるかも?)と思いましたが、それ以前に女子とどう接して良いかわかりませんでした。

残念な思春期の中学生男子です。

 

図書委員のお仕事

中学校の図書委員の活動自体は、小学校のそれと、大きな違いはありませんでした。

ただ、図書室内の蔵書と訪問者の数の多さは、比べ物にならない程でした。

勉強の資料探しや、単純に読書好きの生徒がひっきりなしに貸し出しカウンターに並びました。

そのため、Aさんと一緒に図書委員をしていても、ゆっくり話をする暇はありませんでした。

どういう態度を取ったら良いかわからないという、事前の懸念は杞憂に終わりました。

 

けれども、夏休みが終わり、2学期になると急に図書室が閑散とし始めました。

どうやら受験生となった3年生がほとんど顔を見せなくなったことが理由の様でした。

3年生の先輩達は、部活を引退し、本格的に塾や課外授業で、図書室に来る暇もなくなったのでしょう。

また、1年生も、中学校の図書室が物珍しく、春先にはワイワイ来ていましたが、その頃にはすっかり顔を見せなくなっていました。

 

図書委員としての仕事も、貸し出しや返却図書の戻し作業よりも、書架の整理やポスター作りに当てられる様になりました。

絵を描くのは昔から好きだったので、自ら進んでポスター作りに熱中していました。

私の描いた「図書室に行こう」とか、「お静かに」「本を大切にしよう」などのポスターが、校舎内の廊下や図書室内に掲示されたのが嬉しかった思い出があります。

 

私がポスター描きに没頭しているところに、「あとか君、上手じゃん」と声をかけられました。

その声は、Aさんでした。

「そうかな?」と言って、私は少しドギマギとしてしまいました。

そこまで、同じ図書委員でありながら、Aさんとは、ほとんど会話らしい会話もできていませんでした。

「あとか君は図書委員、向いてるよね」

「そうかな?」と同じ様にぶっきらぼうに答えてしまいました。

そのため、大して会話は弾まないまま、Aさんは自分の読みたい本を読みふけっていて、私はポスター描きを続けていました。

会話が続かなかったことに、少しほっとしましたが、モヤモヤした気持ちは残りました。

 

図書室にて

秋になって、さらに図書委員の仕事は暇となりました。

日没時刻が早くなり、図書室のちょっとでも居残ると、周囲は真っ暗になってしまうので、下校も自然と早くなったのでした。

各クラスの図書委員が持ち回りで、大体月に2〜3日、18時まで放課後業務をこなしていました。

私とAさんは、ほとんど会話もなく、カウンター内に、それぞれが好きな本を持ち込んで読んで過ごしました。

その頃、私はコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズにハマっていました。

Aさんも常に何かを読んでいました。

私が読んだこともない様な、難しそうな本を読んでいた様な記憶があります。

今でもそうですが、私自身は比較的速読で、ポンポンと読み飛ばしていきます。

そして、時々思い出しては、気に入った本をもう一度読み返すのです。

特にホームズの第1作目の「緋色の研究」が好きで、その時期だけでも数回は読んでいると思います。

Aさんはじっくりと、場合によっては同じページを何分もかけて読んでいる姿が見られました。

何となく恥ずかしくて、「何読んでるの?」と聞けませんでした。

誕生日に

11月のある日、私は13歳になりました。

中学生にもなると、自宅でも、それほど盛大に誕生日を祝われることもなくなっていました。

何となく友達にも言えずに、(今日1日、誰からも「おめでとう」すら言われてないなぁ)と、ほんの少し残念に思っていました。

中学生にまでなっても、男子はまだまだ子供なのです。

正直、男子同士、お互いの誕生日にそれほど興味はありません。

しかも、その日はたまたま図書委員の担当日だったため、友達と帰る事もできませんでした。

 

 その日の図書室はいつも以上に人の気配がなく、シーンとしていました。

相変わらず、私もAさんも、それぞれの読みたい本を読んで過ごしました。

貸し出し業務もほとんどありませんでした。 

 18時前になり、今日の分の数枚の貸し出しカードの整理と記帳を終わらせ、消灯して、図書室の鍵を閉めました。

 「じゃあ、(図書室の)鍵返して来る」と言って、いつも通り私は職員室に向かいかけました。

そこで、「あのさ」とAさんが声をかけてきました。

そして、鞄から何か取り出し、私に手渡しました。

「今日、誕生日でしょ?」

 「あ。うん。」と私は奇妙な返事をしました。

今なら、もっと気持ちを込めてお礼が言えますが、初心な中学生男子にはどだい無理な話です。

「じゃあ、また」

Aさんもそんな私の反応に恥ずかしくなったのか、素っ気ない態度で帰っていきました。

明らかに誕生日プレゼントでした。

包装紙を剥がしてみると、2冊の文庫本と小さな手紙が入っていました。 

1冊は「緋色の研究」でした。

私がこの本を何度も読んでいることを見ていたのでしょう。

それを知られていたことに、ちょっと気恥ずかしくなりました。

そして、もう1冊は夏目漱石の「吾輩は猫である」でした。

そう言えば、Aさんは古典的な名作をたくさん読んでいた様に思います。

「雪国」や「舞姫」など、タイトルは知っているけれど、当時の私は手に取ったこともない本ばかりでした。

そして同封されていた小さな手紙には、いかにも女子らしい筆致で「誕生日おめでとう」とだけ書かれていました。 

 

 当然、自宅に持ち帰りましたが、親には話しませんでした。

中学生男子は、そんな話を親にはできないものです。

それから、何故、Aさんが私の誕生日まで知っているのかは、わかりませんでした。

 

暗い月の夜 

年が明けた直後、父親から、私にとってはかなり衝撃的な報告がありました。

仕事の都合で、4月から九州のF県に転勤が決まったと言うのです。

つまり、私は中学2年生になる4月から、転校することになったのです。

初めての転校に、確かに不安もありましたが、不思議な高揚感もありました。

基本的に楽天的なので、少しウキウキしていた様に思います。

母親が担任教師に連絡をして、部活の顧問の先生や何人かの親しい男子の友人には私から話しました。

そして、ただ何となく、Aさんには言いそびれていました。

学年の途中での転校でなく、3学期まで終わってから、春休みに学校を去ることになるので、まだ時間的な余裕があります。

「その内、言えばいいや」 くらいに思っていました。

そのまま、何となく2月になりました。

図書委員の放課後担当の日。

その日もいつも通り、それぞれ本を読んで過ごしました。

きっかけがなく、転校の話はできずに図書室の終了時刻の18時となってしまいました。

消灯して、鍵をかけたところで、珍しく図書室担当の先生が鍵を受け取りに来ました。

先生は「あとか君、もう暗いからAさんと同じ方向なら、目の届く範囲で帰ってくれないか?」と言いました。

変な言い回しでしたが、多感な時期の男子と女子に向かって、「一緒に帰れ」と言いづらかったのかもしれません。

「はい。」と私は答えました。

ついでに転校の話もできるかな、とも思いました。

 

秋頃から、もうその時刻は真っ暗でしたが、Aさんを送ったことは一度もありませんでした。

その日は、夜空に、どんよりとした雲が広く掛かって月が隠れていて、いつも以上に暗い道でした。

普段の月の光は意外と明るいということを、実感させられました。

 

初めて2人で一緒に下校する道すがら、何の話をしたのか、ほとんど覚えていません。

ただ、私が転校する話は、Aさんは既に知っていました。

その後、多分、引っ越し先のF県の話や転校先の学校の話なんかをしたと思います。

 

Aさんの自宅の近くまで、15分ほどだったと思います。

そんなわずかな時間ですが、そんなに長く話したのも初めてでした。

でも、結局、何故、私の名前や誕生日をAさんが知っていたのか、聞き出すことはできませんでした。

 

一つだけ、とてもよく覚えていることがあります。

それは、その帰り道で、Aさんの言った不思議な一言でした。

私の目には真っ暗な夜空でしたが、Aさんがこちらを振り返らず、言ったのです。

「月が綺麗だよね」

 

春休み

それ以降、Aさんと一緒に図書委員の仕事をするタイミングはありませんでした。

そのため、Aさんと会話することはできませんでした。

3学期の終業式の日、担任の先生に促され、私はクラスメイトの前で最後のあいさつをしました。

ただ、クラスメイト達もすぐ2年生になって、このクラスではなくなります。

何となく、盛り上がらない(?)最後の挨拶だった様に思います。

それでも、下校途中、何人かの男子の友達が「送別会」と称して、近くの運動部男子御用達の駄菓子屋に集合してくれていました。

「最後だから好きなもの何でも買ってやるよ!」と言われ、うまい棒やキャベツ太郎等、今でも好きな駄菓子を山ほど奢ってもらいました。

中学校では、たった1年でしたが、それ以前の小学校時代からの付き合いの友達もいて、それなりに思い出話に花が咲きました。

すっかり遅くなり、辺りは暗くなっていました。

 

過去最高に遅い時刻に帰宅すると、母親からこっぴどく叱られました。

私は、今日は早く帰って自分の荷物を詰める様に母親から今朝、強く言われていたのです。

私の梱包だけ圧倒的に遅れていました。

しかも、母親に「自分の持ち物は触るな」などと言い放ってしまっていたため、ほぼ手付かずと言っても良いくらいでした。

引っ越しは、その2日後でした。

「ダンボール箱に入っていない物は全部捨てていく」と母親に宣言され、必死で詰め込みました。

さっき友達に買ってもらったばかりの両手に抱えるほどの駄菓子もそのまま箱に詰めました。

結局、何とか準備ができたのは、引っ越し業者のトラックが来る間際のことでした。

 

全ての荷物が運び出され、私は空っぽになった部屋を眺めて、しばらく感慨にふけっていました。

そこで、母親が思い出した様に言いました。

「Aちゃん大きくなってたねぇ。

同じクラスだったって知らなかったわ。」

 

Aさんのこと

母親によると、終業式の日、私が「送別会」で遅くなったあの日、自宅までAさんが挨拶に来てくれていたのです。

 

そして、Aさんのことを母親に聞いてみました。

覚えてない?(小学校)1年生で同じクラスだったけど?

「Aちゃんのところ、ちょっと複雑で、家にご飯がなかったりしていたみたいでね。

うちで、たまにご飯食べたりしてたのよ。

最初、あなたがここに連れてきたんだけど、本当に覚えてない?

そう言われても、全く思い出せません。

母親の話では、小学校2年生の頃に、Aさんは祖父母に引き取られ引っ越して行ったそうです。

そして、今回、中学生になるのを機にまたこの辺に戻ってきたということでした。

しかも、小学校1年生の時、友達みんなを集めて自宅で行われた、私の「お誕生日会」にも参加していました。

後で、アルバムで写真を見てみると、確かに私と一緒に、幼いAさんの姿が写っていました。

だから、彼女は、私の名前はもちろんの事、誕生日も知っていたのです。

私が思い出す素振りを見せなかったので、Aさんも言い出しづらかったのかもしれません。

ただ、その当時はAさんのことを苗字で呼んでいて、しかも今の苗字とは違っていました。

そのことが、彼女のことを思い出し辛くしていたのかも知れません。

 

ただのつまらない言い訳です。

 

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画像引用元:写真AC  KAZ (id:kz-photo) さん

クリエイター名:KAZU555さん

満月の夜に思い出したこと。

引っ越してから、もう2度と、彼女に会うことも、話をすることもありませんでした。

誕生日にプレゼントをもらったお礼も、まともにできていません。

それどころか、祝ってもらってばかりで、彼女の誕生日すら知りません。

彼女があの後、どんな人生を歩んでいるのか、知る術もありません。

 

でも、あの時もらった「緋色の研究」と夏目漱石の「吾輩は猫である」は、今も私の書棚に並んでいます。

 

夏目漱石と言えば、彼が英語教師だった頃の、有名な逸話があります。

”I Love You”を訳すときに、

「日本人は『君を愛している』などとは言わない。

『月が綺麗ですね』とでも言うべきだ」

と言ったというのです。

この逸話の真偽はともかくとして、奥ゆかしい日本人的な「遠回しな告白の言葉」として、とても寓話的です。

 

私は、その漱石の逸話を、ずっと後になってから知りました。 

 

月の出ていないあの帰り道でのことと、Aさんの言った不思議な一言。

それは私の記憶違いだったり、何かの勘違いなのかも知れません。

 

もうすっかり大人になった今でも、こんな綺麗な満月の夜には、そんなことを思い出したりしています。

 

今回は、この辺で。

それでは、またお越しください!

 

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