こんにちは、あとかです♪
40歳代後半になって、私は、鏡を見ていつも「父親に似てきたなぁ」と思います。
若い頃はそれほどでもなかったと思いますが、見た目だけでなく、動作だったり、喋り方だったり、どことなく似てくるものなのかも知れません。
父親について考えると、私が時折、思い出す出来事があります。
そして、今、父に伝えたいこともあります。
今回は、【父親に伝えたいこと】娘が生まれたあの日のこと。についてご紹介します。
実話を基にしていて、記憶を頼りに書いているため、一部不正確だったり、間違いもあるかもしれません。
また、身バレしない様にあえて変えている部分もありますので、ご了承ください。
※2020年6月20日に、メインブログに投稿したものを一部改訂し、移動しました。
【父親に伝えたいこと】娘が生まれたあの日のこと。
父のこと
父は、とても真面目な人でした。
ど田舎の名家の生まれで、昔ながらの武士の家系だったそうです。
父は次男でしたが、長男には子供がいなかったため、親戚や祖父からは、私が「跡取り」と言う扱いをされました。
もちろん後を継ぐ様な立派な家督も城もありませんでした。
それでも、父は昔からかなり厳しく育てられ、勉強もスポーツもそれなりに活躍した様です。
父は地方の国立大学を出て、そこそこ大きな総合商社に入社ました
当時の商社といえば、イケイケの時期で、接待やゴルフ、海外旅行など、色々派手だった様です。
どう考えても、真面目で口下手な父にはあまり合っていない仕事だと思います。
母に聞くと、結構無理をしていた様です。
休日は、いつも昼間から酒を飲んでいました。
それも、お酒を楽しむと言うよりも、子供の私から見ても、ただ酔いたいと言う飲み方でした。
今思えば、平日の仕事上の嫌なことなどを紛らわせていたのかも知れません。
平日は、堅物がスーツを着て歩いている様な感じでしたが、休日、酔ってからの父は呂律も回らず、テレビを見ながら、いつもぶつぶつ文句を言っていました。
私は、そんな風に酔っている父の事が、正直言って、かなり苦手でした。
子供に手をあげたりする様な人ではありませんでしたが、酔った時だけ亭主関白で、必要以上に口うるさくなりました。
恐らく祖父がそうだったのでしょう。
私には優しかったのですが、今思い返すと昔の田舎の男尊女卑の塊みたいな祖父でした。
ただ、素面なら素直に聞けますが、酔っ払ってとやかく言われても何も響きません。
小学生の頃は怖かったのですが、中高生になると平気となり、それ以降は、酔っている時に何を言われても聞き流せる様になりました。
私には4つ年下の弟がいますが、彼の方は、父はずっと怖い存在だったと思います。
父は、とても真面目で、神経質なところがあり、恐らく気の小さい人だったのでしょう。
普段は無口で大人しいのですが、酔っ払っての失敗はいくつもありました。
同窓会で散々飲んだ帰り道でどこかにぶつけた様で、頭がパックリ割れて血だらけで帰ってきたり、タクシーの運転手と口論となって警察を呼ばれたりしたこともありました。
私が中学生の頃、母方の祖父母の家に帰省した際、ちょうど、いとこが来ていました。
母の実弟の子供達で、確か2歳と3歳の男の子だったと思います。
たまたま、父と私と、その2人の幼児だけが、その部屋にいる時間がありました。
父は、いつも通り酔っ払っていました。
それでも、父なりに、幼児と遊んでやろうとしていた様で、ちょっかいを出していました。
普段見慣れていないおじさんで、しかも酔っ払って呂律が回っていない父に、幼児たちは完全に引いていました。
それでも、お構いなくボールを投げてみたり、無理やり抱きかかえてくすぐったりしていました。
2人は、今にも泣き出しそうな顔をしていました。
私は我慢できなくなり、「もうやめろ!嫌がってるだろ!」と父を怒鳴りつけてしまいました。
そして、2人を抱っこして、父親からひっぺがし、別の部屋に連れて行きました。
恐らく、父に対して、面と向かって文句を言ったのは初めてのことだったと思います。
後から思い出しても、そんなに怒ることではなかった様にも思いますが、その時はとても嫌だったのです。
弟との確執
私は、大学に入ってから家を出て、一人暮らしを始めました。
それから他県で就職をし、それ以降も、父と一緒に住むことはありませんでした。
後になってから、母に聞いたのですが、その後は大変だった様です。
弟は、性格的には恐らく父と似ていたと思います。
真面目で神経質で、気が小さいところもありました。
そして、何より、父の酔っている姿を、嫌悪していました。
ある時、酔っ払った父が、弟の部屋にいきなり入って来て、成績についてとやかく言ったらしいのです。
そうすると弟はカッとなって、父に殴りかかったそうです。
弟も高校生になっていましたので、体も大きく、力も強くなっています。
母が必死で止めに入り、その場は収まったそうです。
それでも、その後も弟と父とはしっくり来ていなかった様です。
やがて弟も大学に進学し、家を出ました。
家には両親だけとなり、その頃は、母にとってはとても平穏な時期だったと思います。
1年後、困ったことが起こりました。
大学からの通知で、弟が全然単位を取っていないことが知らされました。
弟は、大学に全く通っていなかったのです。
母は驚いて、弟の住むアパートに向かいました。
その間、弟は電話にも出ず、折り返してもきませんでした。
母が、弟の部屋にたどり着くと、そこはまるでゴミ屋敷の様になっていました。
そこでゴロンと横になっている弟の姿がありました。
弟は大学入学直後から人間関係がうまくいかず、初めての一人暮らしの間で、うつ病を発症していた様です。
「もう帰るか?」と母が聞くと、弟はうなずいたそうです。
そこから、母の苦労がまた始まりました。
関係の悪い父と弟の間で、大変な毎日だったと思います。
普段は何も言わない父が、酔うと弟に文句を言い始め、それに対して弟がキレるの繰り返しだったみたいです。
実は、私はそのことを随分経ってから聞きました。
私は既に就職し、結婚もしていましたし、自分のことで精一杯だった、といえば言い訳になります。
ただの、親不孝者です。
ある日、当時、私が働いていた家電販売店に、父が突然現れたことがありました。
「時間あるか?」と聞かれ、少し休憩をもらって店外で話をしました。
内容は、弟と話をしてほしい、と言うことでした。
弟は大学を辞めた後、家から出られず、完全な引きこもりになっていました。
父なりにも心配だったのでしょうが、父も弟も、同じく口下手で、うまくコミュニケーションが取れていませんでした。
大学も出て、就職し、それなりに社会に出ている兄の私から、何かを伝えて欲しかった様です。
父が帰った後、母に連絡すると、かなりびっくりしていました。
まさか私のところに来ているとは思っていなかった様です。
聞くと、相変わらず酔っ払った父が、うつ病に悩んでいる弟に「病気と言えば、仕事や勉強をしないで良いと思っているんじゃないのか?」と言ったことが決定打となり、最悪な状況になっていたそうです。
父なりには弟を心配し、ハッパをかけるつもりだったのでしょう。
長い間同居しておらず、状況すらわからない私に頼って来たくらいですから、父自身も相当困っていたのだと思います。
やがて、母は弟を連れて実家に戻ることになりました。
このまま一緒に住まわせておくと、どちらかが怪我をすることになると思った様です。
かと言って、弟は1人にするとどうなるか分かりませんし、父も新しい事業を始めるタイミングとなり、都合も良かったということもありました。
そう言うわけで、父はアパートで一人暮らし、母と弟は他の県に移り住むことになりました。
娘が生まれる前日のこと
それから数年後、私の奥さんが長女を身篭っていました。
私にとっては第1子ですし、両親にとっては初孫でした。
父も母も、とても喜んでくれました。
父と母の別居は続いていましたが、弟と距離を取ったことでお互いうまく行っていました。
何より、母が落ち着きました。
時々、母は父の一人暮らしのアパートに行っては、洗濯や掃除と、作り置きの料理をして帰っていました。
元々の出産予定日を過ぎて、1週間ほど経った頃、そのままだと母子ともに危険なため、陣痛促進剤を用いることになりました。
促進剤を使用すれば、その日に分娩が誘発されるので、出産日が指定できることになります。
そうして、出産日が次の日と決まったのです。
出産日が決まったことを、父親に電話で連絡しました。
「前、連絡したけれど、誘発剤を使うから、明日生まれるよ。」
父は、「わかった。明日、母さんと一緒に行くから。」と言って、何かいるものあるか?とか、その産婦人科は車は停められるか?などいくつか質問されました。
相変わらず、仕事っぽいやりとりだと思いました。
酔っていない普段の真面目で神経質な父の、面白味のない会話でした。
そんな堅物な父でしたが、それなりに高揚していることもわかり、少し可笑しくなりました。
母親には先に連絡していたので、出産日に合わせて、新幹線で移動してくることになっていました。
そのため、父は既に、母と合流の打ち合わせ済みだった様です。
最後に父から、「おめでとう」と言われました。
まだだよ、と私は笑いました。
「そうか」と言って、父も少し笑っている様に聞こえました。
それが、父と交わした最後の言葉となりました。
娘が生まれた日
予定通り、次の日、娘は無事に生まれました。
生まれてしまうと、病院には義母と、私の母が揃っていて、男の私には特にやることもありませんでした。
病院の面会時間も終わり、それぞれ退散することになりました。
迂闊にも私は、そこで父が来ていないことに気づきました。
母は、「父さん今朝から電話出ないんよね。酔って寝てるんかも?さっきもかけたんだけどねぇ?」と言いました。
アパートには行ってみた?と聞くと、母は、「合鍵で開けたら、チェーンロックがかかってるんよ。呼び掛けたけど、寝ちゃってるみたいで、出てこなかった」と言います。
???
私は、鼓動が早くなるのを感じながら、母に言いました。
「明日、アパートに行ってみよう」
「そう?母さんだけでいいけど?」と、大の大人が、20時間以上電話にも出ないのに、母は呑気なことを言いました。
もしかしたら、母は無意識に何かから目を背けていたのかもしれません。
父のいた場所
次の日の早朝、父が一人暮らしをしているアパートに、母と出向きました。
チャイムを何度鳴らしても誰も出てきません。
電話を鳴らしましたが、誰も出ません。
母の持っている合鍵でドアを開けると、いまだにチェーンロックがかかっていました。
そこで私は、ベランダから室内を覗くことにしました。
幸いなことに、父の部屋はアパートの1階にありました。
カーテンの隙間から部屋を覗くと、布団が敷かれているのが見えました。
そして、その布団には、誰もいなかったのです。
私は、ああ、やっぱりダメだ、と思いました。
母に「窓を割って入る」と言いました。
母はびっくりしていました。
早速、私の車にあった工具で、窓の一部を破りました。
部屋に入ると、やっぱりそこに父の姿はありません。
ただその奥の、トイレのドアは開いていました。
そこから、トイレの照明の光が漏れていました。
近づいてみると、そこに父は倒れていました。
その時刻は
父は、目撃者もなく、1人で亡くなっていたため、事件性がないかを判断されることになりました。
そこから警察の現場検証や医師の診断などがありました。
母と私は、少し離れた別々の場所で調書を取られました。
同じことを何度も何度も、別の警官に変わっても同じ様なことを繰り返し聞かれ、いい加減イライラしてしまいました。
今思えば、供述に不審な点がないか、当たり前の手順だったのでしょう。
ただ、亡くなっている身内を発見したばかりの私たちにとっては、とてもきつい時間でした。
母が現在別居している理由や、昨日の夕方、娘が生まれたので、そのために部屋に来たことなどを、説明しました。
当然ながら、「事件性がない」と言う結論に達しました。
ただ、最後に、警察の依頼で来ていた医師が、とても申し訳なさそうに死亡推定時刻を告げました。
その時刻は、ちょうど娘の生まれた時刻でした。
私は、自分が父親になったその日に、自分の父親がいなくなったのです。
あれから10年以上
その後のことを、最近になって母と思い返してみても、お互いにすっぽりとあらゆる場面の記憶が抜けていることに気づきました。
恐らく、色々なことが短期間で起こりすぎて、頭が回っていなかったのだと思います。
仕事を1週間休んで、父の葬式をして、その間に奥さんが産婦人科から退院したり、父の部屋を片付けたりしたはずです。
窓を割ってしまったアパートの大家さんにも謝りにも行きました。
出産直後の奥さんは、元からしばらく実家に帰ることになっていましたので、義父に車で来てもらいました。
母も私も、頭の中で、その1週間の出来事の時系列が、ぐちゃぐちゃになっています。
父の葬式の前に、祖母に電話すると「ごめんねえ。どうしても息子の葬式なんて出られないんよー。」と泣かれました。
当たり前です。
次男坊の父は、祖母からとても可愛がられていたとき聞いていました。
私には、そんなショックを受けた祖母を力付ける言葉が、何一つ出ませんでした。
その上、なんとその祖母まで、父の葬式の次の日に、突然亡くなったのです。
心臓発作でした。
1週間で2度も、私は身内の葬式に参列することになりました。
父のみならず、祖母まで、私は最後に声を聞いた人間となったのでした。
あれから10年以上経って、その時生まれた娘は、今年高校生になりました。
最後に
父の命日と、娘の誕生日が一緒と言うのは、不思議ではありますが、忘れにくくて良いなとも思っています。
父が亡くなったあの日、警察の検証の後、連絡をした葬儀社の人が父を着替えさせてくれて、布団に寝かせてくれました。
さすがプロだと思いました。
身内の私たちでさえ、そうなった父になかなか触れられませんでした。
葬儀社の人達が一旦帰り、布団に横たわった父と、母と私だけが部屋に残されました。
さっきまで、ざわざわと他人が歩き回っていた部屋が、急にシーンと静かになりました。
そうやって落ち着くと、それまで沸いていなかった感情が一気に溢れてきました。
私は、いとこの幼児達と遊ぼうとしていた父を怒鳴ったことを、実はずっと気にかかっていました。
いつか、私の子供が生まれたら、父がたとえどんなに酔っ払っていても、好きなだけ遊ばせてやろう、と思っていました。
そう、思っていました。
そのことを母に話しながら、私は涙が止まらなくなりました。
私も、現在は2人の子供を持つ父親となりました。
私達を大学に行かせたり、家を買ったり、何も困ることなく当たり前に暮らせていたこと、それだけですごいことだったと気づいてきます。
今の私の年齢の頃の父のことを思い返すと、そのすごさは更によくわかります。
そして、今、もし父が生きていたなら、一緒に飲みに行けると思います。
酔っ払った父の無駄話も、仕方ないなぁと思いながら、付き合って聞いてあげられると思います。
本人には勿論言ったことはありませんし、当時は、もしかしたら実感もしていなかったかも知れません。
でも、今なら伝えられることがあります。
「私は、お父さんを尊敬しています。」
最後までお読みいただいて、ありがとうございました。
それでは、また次回。
気が向いた方は、読者登録をおねがいします